今日、働くことについて考えたこと(好きなことだけを仕事にする)
今日、働くことについて考えたことは、
好きなことだけを仕事にする
ということです。
仕事において、楽しいことばかりで、そんなことになれば、幸せだと思います。そのことについて考えてみました。
1.好きなことだけ仕事にするという本が巷に多くなった
最近本屋に行くと、好きなことだけで仕事にするという本をよく見かけます。
以下はいずれも読んでいません。 amazonで検索するとざっと出てきました。
自分で「始めた」女たち 「好き」を仕事にするための最良のアドバイス&インスピレーション
- 作者: グレース・ボニー,Grace Bonney,月谷真紀
- 出版社/メーカー: 海と月社
- 発売日: 2019/05/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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基本的な趣旨は、AI等の技術が進み、面倒な仕事は機械がやってくれるので、自分が本当に好きなものを見つけ出すことが重要だということかと思います。機械の進化に対する一つの答えということなのでしょう。
2.好きなことを仕事にするという意味
当たり前ですが、文字通り好きなことを仕事をすれば良いかというとそういうわけにはいきません。いくつか留意するポイントがあり、これらの本を読むと、今後、逆に、苦しむ・悩む人も出てくるのではないかと思います。
・社会とのかかわりは必要
たとえばゲームが好きでしかたなくても、ゲームをやっているだけでは、生活は成り立たないです。プロのゲームプレーヤーになるということであれば、それも家にいて、ひとりでやっていたら、お金にはならないのです。社会とのかかわりは必要になります。
社会とのかかわりがある中で好きな仕事を見つけるのは、人によっては難しいかもしれません。そもそも社会とかかわりたくないことが好きという人もいるからです。
・好きな仕事がお金になるとは限らない≒みんなが好きなものは意味がない
ニッチなものを狙う必要があるということもこれらの本の前提かと思います。要するに機械がカバーしないようなニッチなもの(自分だけが好きなもの)というものです。
ただ、一般的にみんなが好きなものが自分もすきであったりします。自分だけが好きなものがあり、それがちゃんとビジネスとして成り立つのであれば、その人はかなり幸せでしょうが、それは難しいことです。確かに技術革新は行われ、そういったニッチなものを狙うという社会的なインフラは出来上がりつつありますが、まだまだ時間がかかると思います。
以上が本日考えたことでした。
好きなことだけを仕事にすることについて考えてみました。
最後までありがとうございました。
今日、働くことについて考えたこと(指示待ち人間をなくす)
今日、働くことについて考えたことは
指示待ち人間をなくす
です。
指示待ち人間がない会社というのは、良い企業なのだろうと思いますが、そのことについて考えてみました。
1.指示待ち人間が発生してしまう理由
指示待ち人間というのは、文字通り、指示があるまで動かない人のことです。指示待ち人間は、多くの企業で許されていませんが、かならず発生してしまうものです。
「指示されていないからやりませんでした」という説明をされてあきれてしまうということはありますが、その場合、反省すべきはそのように発言した本人よりも、指示する側の人です。
なぜなら、指示待ち人間が出てきてしまうかというと、指示する側の指示が理解にしくいものだからです。特に日本の場合、同じ日本語を話していると「こういえばわかるだろう」と思いがちですが、世代によって考え方が異なります。以下の記事を読むと、20年~30年でだいぶ考え方が異なるのがよくわかります。
指示待ち人間に出会ってしまったら、わかりにくい指示だと反省し、よりわかりやすい指示をするようにしなくてはならないのです。
2.指示待ち人間を発生させない方法
それでは、指示待ち人間を発生させない方法にはいくつかあります。
その一つは、
「問い」を共有する
ということです。
「問い」を共有するとは、どういうことかというと、指示する側と指示される側で同じ目線を持つようにすることです。
たとえば、指示待ち人間が「指示がなかったので、顧客説明をしなかった」と言い訳をしてきたら、「顧客が自分たちに何を求めているのか」という問いを共有していないことによって生じているトラブルです。そのような問いを共有することによって、指示待ち人間をなくすることもできます。
以上が本日考えたことでした。
指示待ち人間をなくすことについて考えました。
最後までありがとうございました。
今日、働くことについて考えたこと(わかりにくいもの)
今日、働くことについて考えたことは
わかりにくいもの
についてです。
仕事において、わかりやすいものばかりではなく、わかりにくいものというのがたくさんあります。そのことについて考えてみました。
1.わかりにくいとは
わかりにくいものというのは、表現者が自分の視点でしか考えていないものです。
わかりにくいということは、頭にインプットされないということとも等しいと思います。そのものがメッセージしている趣旨の通りに行動することができないということです。
人はそれぞれ持っているインプットの仕方があると思います。そういう意味では、パソコンに似ています。Appleのパソコンでエクセルを操作させるのが難しいのと一緒です。人それぞれ入力する方法というのがあるのですが、同じ人間ということで、その違いを無視して「これぐらい、わかるだろう」という甘えが生じてしまうことがあるのです。
2.わかりにくいものに出会った場合の対処方法
わかりにくいといって無視することができれば、それに越したことはないのですが、避けられないこともあります。そういうときは、どうすればよいかということですが、二つあると思います。
まずは、
全体をとらえて見る
ということです。
まず、どういうことを目的として、なぜこのようなものがあるのかというのを全体的に捉えるということが大切です。
よく、何かを始める際に、入門書から入るということを薦められますが、入門書の良いところは全体像がわかるということです。
その次に
細分化する
ということです。
すなわち、何がわかっていて、分かっていないのかというのを細かく分析するということです。わかっている部分を積み上げていくと、およそのことがわかってくるようになります。
最後に
自分なりに再統合する
ということでず。再統合するとはどういうことかというと、自分なりに人に説明をすることを前提に考えるということです。人に説明しようとすると、だいたいのことは分かるようになります。
上司というのがいると何が良いかというと、説明する相手となってくれるからです。うるさい上司もうまく使えば良いと考えることも出来ます。
以上が本日考えたことでした。
わかりにくいものについて考えました。
最後までありがとうございました。
今日、働くことについて考えたこと(現実を受け入れる)
今日、働くことについて考えたことは
現実を受け入れる
ということです。
仕事において、後で「ああすればよかった」「こうすればよかった」と考えがちですが、そのようなことを考えても意味がありません。現実に向き合う必要があるのですがそのことについて考えてみました。
1.なぜ現実を受け入れるのは難しいのか
あたりまえのような気もしますが、なぜ現実を受け入れるのが難しいのか考えてみたいと思います。その理由はいくつかありますが、正面から現実を受け入れようとするのは
きつい・モチベーションが下がる
からです。
「仕事の経験値はあるのに、まったく頼りにされない自分」や
「自分の仕事のマーケットがどんどん縮小している」
というのは、なかなか直視するのはきつく、モチベーションが下がるものだと思います。
ただ、このような現実を避けていると必ず、自分のところに返ってきてしまいます。この現実を受け入れる必要があるのです。
2.現実を受け入れるには
現実を受け入れることがモチベーションにつなげることができる人というのは、力強いです。
そういう人はどいう人なのかというと、おそらく
解決方法をたくさん思い浮かべる
ということを常に心がけている人なのではないかと思います。
現実問題として仕事の出来ない自分がいるのであれば、どうやったら仕事ができるようになるのか、いろいろなアイディアを考えるということです。
アイディアを思い浮かべるというのは、才能ではなく訓練で身につけられるものです。
そのことは以下の本にも書かれています。
小説や歴史もそうですし、一般的な教養というのは、現実の解決方法のヒントを与えてくれるものです。同じ人間が考えたことなので、およその場合、過去同じような問題で困った人というのはかならずいます。そのようなことを学び、解決していくという成功体験を経験することが、現実を受け入れる方法になると思います。
以上が本日考えたことでした。
現実を受け入れることについて考えてみました。
最後までありがとうごじあました。
今日、働くことについて考えたこと(違った考え方を受け入れる)
今日、働くことについて考えたことは
違った考え方を受け入れる
ということです。
人間の考えることというのは、たいてい同じだと思うのですが、違った考えになってしまいます。そのことを受け入れることについて考えてみました。
1.人間の考えることは同じだが、なぜ違うようになってしまうのか?
人間の考えることというのは、だいたい同じだと思います。たとえば、どんな宗教を信じていても、ドル現金は信じますし、数字も信じます。おそらく、自分たちがもっているモラルというのは、どこの文化でも同じなのではないかとは思います。
どうして違う考え方になってしまうのかというと、自己都合だと思います。自分が「~したい」というところで対立してしまうのです。正義を見せたいとか、自分だけは、安定したいだとかそういった自己都合が世の中を複雑にするのです。
2.違った考え方を受け入れるということとは
たとえば、紙面の本を読むべきだという主張とネットで十分だという周長は、どちらが正しいということはなく、究極のところはその人の好みです。
また、ビジネスにおいても、かならず対面でコミュニケーションをとるべきだという主張と、メールで済ませられるのであれば、メールで済ますべきという主張も結局好みの問題です。
結局自分がどうしたいかということが重要なのですが、主張が対立すると一般的に、世の中こうあるべきというのふうに、一見高度な主張をするので、わかりづらくなってしまうだけです。
違った考え方を受け入れるということは、相手が「~したい」ということを受け止めるということに他ならないと思います。
以上が本日考えたことでした。
違った考え方を受け入れることについて考えてみました。
最後までありがとうございました。
今日、働くことについて考えたこと(なぜゼロサムはダメなのか)
今日、働くことについて考えたことは
なぜゼロサムはダメなのか
ということです。
1.ゼロサムはなぜダメなのか
ゼロサムというのは、何かというと、たし合わせてもゼロになるということです。すなわち一方の利益が片方の損失になり、たし合わせてゼロになるというものです。
基本的には、ゼロサムは、否定されるべき概念とされています。盗みがなぜダメかというと盗んだ人の利益と盗まれた人の損失を足し合わせるとゼロだからです。
なぜゼロサムがダメかというと、
発展性がなくなってしまうから
です。
毎日誰かが他人のものを盗んでいたら、ゼロサムになってしまうからダメなのです。そのような社会は何の発展性もなくなってしまうからです。麻薬・賭博も同じ理由です。
一方、日本人を含めて、アジア圏では、基本的に最後は土にかえってゼロになるという考え方をしています。社会の繁栄というのは、いつしか衰退するということとセットで捉えられています。アジア圏において、ゼロサムは必ずしも否定されることではなく、ゼロサムを前提とした倫理観を持つことを求められます。たとえば、ゼロサムにおいては、一人一人が自分の欲望を控えることを求められるので、自分の欲望だけを満たす盗みもダメだということになります。発展することが前提ではありません。
したがって、ゼロサムがダメなのは、発展することを肯定しているということが前提になろうかと思います。盗みを働く人に、「社会の発展性がなくなるからダメだよ」と言って、その相手が発展することを信じていなければ、説得力があるかはよくわかりません。それよりは、ルールが守れないと集団から外されると脅した方がはるかに説得力があるはずですが、そのような人には、協力することで社会が繁栄することもよく教え込む必要があるのではないかと思います。
2.パワハラがダメなのもゼロサムだから
人権の尊重も、ゼロサムからの観点から説明できると思います。
なぜ個人として人権を尊重するのかと聞かれた時、それは、社会の発展性があるからということがひとつあります。各種の個人を尊重することによって、いろいろな考え方があり、そこからイノベーションが生まれて、経済が発展するというのが大きなコンセプトです。
パワハラがなぜダメかというと、単に不快以上の理由があるとと思います。パワハラによって意見をいうことを委縮してしまい、個人としての意見が聞かれなくなってしまうという端的な理由で説明することも可能なのです。
「あんなやつからイノベーションうまれるわけねーよ」と言ってパワハラはしていけないのです。その相手がイノベーションを起こさないということを決めつけてはいけないということになります。
以上が本日考えたことでした。
ゼロサムがなぜダメなのかということを考えました。
最後までありがとうございました。
今日、働くことについて考えたこと(叱ること)
今日、働くことについて考えたことは
叱ること
です。
仕事において、叱る・叱られるという場面に遭遇することがよくありますが、そのことについて考えてみました。
1.叱るための自信
叱るには、叱っても良いという絶対的な基準を持つ必要があります。
これは正しい・正しくないというのをちゃんと持っておかないと、当然、人を叱ることはできないという意味になります。
ただ、何が正しいか正しくないかというのは、非常に曖昧なものであったりします。
たとえば、仕事中にネットサーフィンをしていて正しいというの会社は、比較的、新しい考え方を受け入れる準備がある会社です。一方、ネットサーフィンはダメだという会社はそれなりに保守的な会社だと思います。ネットサーフィンによって得られる知識というのは、確実にありますし、それが必ずしも正しくないと言い切れるかというとそいうことでもありませんし、考え方次第です。
人を叱るためには、正しいと思われる基準を吟味する必要があり、そこに叱ることの難しさがあります。それらの基準なしに叱るのは、感情的に怒っていると言われてもしかたないのです。そうならないように常に自分の基準を磨きあげておくということが大切です。
2.叱るための共感性
また、叱るためには共感性を身につける必要があります。一方的に叱っていたら、叱られた方も心に響かず、結局叱ることが徒労に終わってしまうことがあります。叱られる相手の立場を考えるということが大切なのです。
たとえば、叱るときは別の部屋でこっそり注意することが推奨されますが、それも、それが良いと本に書いてあったから、そうするのではなく、相手の立場にたってそのようにするという考え方でなければ意味がありません。正しいことで叱ったのにパワハラとされるのは、やはりこの共感性の欠如が原因なのだと思います。相手の立場を考えなかったことが問題であって、叱ること自体が悪いことかというとそいうことではないはずです。
以上が本日考えたことでした。
叱ることについて考えてみました。
最後までありがとうございました。