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クラッシャー上司の実践的対応策(3)

今回は、歴史上のクラッシャー上司の話をしたいと思います。

日本史で有名なクラッシャー上司といったら私は織田信長をあげます。

織田信長を支持する人には申し訳ないですし、私自体その偉業を否定するつもりは全くないのですが、今で言うところクラッシャー上司の性格の確度が高かったのではないかと思います。

※クラッシャー上司の定義は、(どんな定義もそうですが)、ややあいまいで、この人はそうだ!と確定的に決まるのではなく、どの程度その要素があるかだと思います。

 

裏切りでいうと、浅井長政にはじまり、荒木村重の裏切り、最後は、部下の明智光秀に殺されてしまいます。合理的な思考ができるものの、人の気持ちを考えるのが苦手な人間だったようです。

 

織田信長関連の小説・ドラマを見ていると、不思議に思うことがあります。同じ時代に生きていたとしても、クラッシュしてしまう人とそうではない人に分られるというところです。

 

今回は、そこを分析して、クラッシャー上司に対する実践的な対応策を考えていきたいと思います。ベタではありますが、うまく生き残った人として、徳川家康豊臣秀吉をあげたいと思います。その前にまず信長の人生を簡単に振り返りたいと思います。

 

1.信長の人生

織田 信長(1534年-1582年)は、16世紀後半にかけて生きた戦国大名で、戦国時代に日本の統一に道筋をつけた人物です。人生後半で、彼の指示に従わなかった反対者への残虐性がよく知られています。彼は、統治ルール作り,ビジネス感覚も優れており、経済改革を推し進めました。しかし1582年6月21日、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害。信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府(へと引き継がれていくことになります。[1]

2.うまく生き残った人~徳川家康

織田信長家臣でうまく生き残った人として、まずは徳川家康をあげます。私は以下二つの特色があると思います。

(1)もともと精神が図太い 

江戸幕府を開いた家康は、信長に自分の長男を切腹するように言われて、切腹させています[2]。どんな人であれ、自分の子供を殺さざるを得ない状況というのは、普通の人では心が折れてしまうと思います。たとえば、同時期に生きた四国の覇者、長宗我部元親は、秀吉の政策により、長男が死んでしまい、心が折れてしまい、長宗我部家衰退を招きましたが、家康にはそのようなことはなかったようです。よほど芯の強い人だったのでしょう。

(2)クラッシャー上司の仕事とバッティングしていない 

徳川家康織田信長は、清州同盟によって結ばれていました。当初は同盟関係でしたが、後半は主従関係に変わります。ざっくりいうと、清州同盟というのは、今でいうところ愛知県を中心にそこより東は、家康、そこより西は信長がせめるというものだと思います。

クラッシャー上司から、みんなやられるのに、たまにうまくやっている人がいるということがあると思います。理由がないようにも見えますが、そういう人は、単純にクラッシャー上司と仕事がかぶっていない可能性があると思います。

上述の西とか東の領土をどちらが攻めるかという観点以外でも、信長の仕事のこだわりの一つは、戦国時代を終わらせて、どのような国の形にするかグランドデザインを描くというところがあったと思います。織田信長は、同時期の清のように明を攻め、世界に進出しようと思っていたのではないかと思っているのですが、そういった国家戦略についても家康はかぶっていなかったと思います。

逆にこの部分でかぶってしまったのが、明智光秀なのではないかと思います。

3.うまく生き残った人~豊臣秀吉

もう一人は豊臣秀吉です。この人も政治的な天才だったと思い、上記の(1)(2)も兼ね備えますが、それに加えて以下もあると思います。

(1)能力をひけらかさない 

クラッシャー上司は、圧倒的に能力を持っていたことに他人に承認ほしいという欲望があります。そういう人に対して、部下が自分の方が能力あると戦ってしまうとクラッシュしてしまう可能性が高いと思います。この観点からうまく立ち回ったのは秀吉でしょう。

秀吉は織田信長に対して能力をひけらかさない人だったと思います。たとえば、「私めにはとても中国地方の無理なんで、信長様、援軍よろしくお願いします」みたいにうまくいって上司を総大将にして中国地方の攻略にまきこもうとしました[3]。

その点明智光秀は、四国攻め行き詰まってしまい、本能寺の変を起こしたという説もあrるようです。秀吉のように能力のないことを認めて、お願いしますみたいなことができなかったのでしょう。

(2) 所詮信長も人間だということがわかっていた

秀吉は、自分に子供がいないことを理由に信長の四男を養子にしています。これは、いくら秀吉が領土を増やしても、結局のところ信長の子供にいくのだから信長から猜疑心をもたれないというためにもらったようです[4]。

クラッシャー上司と接していると、この人は本当に人間なのだろうかと思ってしまうことがありますが、所詮同じ人間なのです。クラッシャー上司の子供を養子にするなんて方法は、現代ではありえませんが、その人も家族では父親であるとかそういった視線で分析すると良い解決策が思いつく可能性もあると思います。

4.最後に

今回は、徳川家康豊臣秀吉をあげましたが、歴史上の人たちの行動というのも参考になるものです。クラッシャー上司に悩んでいる人は、以下の司馬遼太郎の小説なんかを読むといいのかもしれません。

司馬遼太郎『新史太閤記』(新潮文庫、1973年)[5]

司馬遼太郎『覇王の家』(新潮文庫、2002年)[6]

司馬遼太郎明智光秀本能寺の変を起こした理由にノイローゼ説をあげています。歴史学者からはこの説は否定されていますが、私はこの説に共感を覚えます。司馬遼太郎も、小説家になる前にサラリーマンを経験しているからなのではないかと思います。司馬史観という批判もありますが、クラッシャー上司の下にいる人には寄り添える小説なのではないかと思います。

 

出典:

[1]織田信長 - Wikipedia

[2]ざっくりとした説明ですが、以下の本では、どちらかというと徳川家の内紛が原因のようです。いずれにせよ、徳川家康の芯の強さはかわらないと思います。

谷口克広『信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反 』(中公新書,2007年)

https://www.amazon.co.jp/信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反-中公新書-谷口-克広/dp/4121019075

[3]司馬遼太郎『国取り物語(四)』(新潮文庫,1971年)519ページを参考にしました。現存する手紙は見られていません。

https://www.amazon.co.jp/国盗り物語1-4巻完結セット-司馬遼太郎/dp/B00RTWPSSG/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1497079358&sr=1-1&keywords=司馬遼太郎+くにとりものがたり

[4]羽柴秀勝 - Wikipedia

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