今日、働くことについて考えたこと(日々の前提を疑う)
毎日働くことについて考えている、がねがねめがねです
今日、働くことについて考えたことは、
「日々の前提を疑う」
ことです。
毎朝起きて仕事に行くなど何気ない日常の前提を疑うことについて考えてみました。
1.いろんな前提を疑ってみる
日々、顔を洗い、朝食を取り、歯を磨き、仕事場にいって、夜帰ってくるというのは、誰かが決めたわけではなく、自分で決めてやっています。そういった前提となるものを丁寧に疑ってみると良いこともあります。
何が良いかというと
自分の信念が見えてくる
ことです。
日々の行動を疑問に思うと、究極的に自分の信念というのがわかってくるということです。
たとえば、朝起きて会社にいって働くのは、そうあるべきだと思っているからです。なぜ働くべきだと思っているのかよく考えてみると、それは誰かが決めたわけではなく、基本的に自分で決めたことなのです。そこには、会社に行って働くのだという強い信念のもと、日々の行動を行っていることがよくわかると思います。
信念というのは、言葉で決まるのではなく、行動で決まり、その行動の日々の積み重ねで出来上がるのです。
2.疑う目線を決める
ただ、疑いすぎるのは、禁物です。特に人に対してや自分に対して疑いすぎると人間不信に陥ったり、立ち直れなくなるので、ほどほどが大切なのです。
そこのバランスというのが、人によっては難しいですが、目線をひとつ決めておくとよいかと思います。
その目線とは、
自分が不幸にならない程度に疑う
ことです。
「人生とはなんぞや」とか「人生の目的とは」みたいな青臭いテーマ(個人的にはそのようなテーマは好きですが)を考えて、結局偶然うまれてきただけじゃんという答えにいたり、悲しくなる人もいます。そもそも、そのような疑問「人生とはなんぞや」とか「人生の目的とは」みたいなテーマを考える目的というのは、幸せになりたいから考えるのであって、不幸になるのであれば、考える必要がないと思います。たまにそこを履き違えて、考えすぎてしまい、不幸になってしまう人もいますが、そこは本末転倒です。
また、疑って耐えられるレベルというのは、年齢など成長速度によって異なると思います。たとえば、まだまだいろいろな可能性のある若者と酸いも甘いも知っている老人では、耐えられる答えというのは異なりますし、その方法も異なるはずです。特に人を疑うということは、孤独が伴うことがありますし、それに耐えられるかは、個人の精神的な成長具合によって異なるはずです。
以上が本日考えたことでした。
日々の前提を疑うと、自分の信念がわかりますが、疑いすぎてはいけないということを書きました。
最後までありがとうございました。